小松ヶ原 反射炉 農兵 

幕末の伊豆

幕末の伊豆

   

伊豆の国の幕末の歴史を訪ねて

    第1部 農兵隊と韮山反射炉
    第2部 新撰組と韮山反射炉
    第3部 技術革新と韮山反射炉
    第4部 韮山反射炉観光コース





第1部.農兵隊と韮山反射炉





富士の白雪 朝日にとける、
        娘島田は、寝てとける。

という7775の端唄が、韮山反射炉建設を進めた、
第36代江川家当主、韮山代官江川太郎左衛門こと、
江川英龍(坦庵公)の創案による、 農兵隊の進軍歌、
ノーエ節のルーツという話があります。

三島ノーエ節は、

富士の白雪ゃ ノーエ
富士の白雪ゃ ノーエ
富士の サイサイ、
白雪ゃ、朝日にとける

とけて流れて ノーエ・・・・

で、三島に流れて、
女郎衆がいて、
お客が困って、
お地蔵さまが居て、
カラスがとまって、

お地蔵様の頭に、カラスがとまった 横顔が、
娘島田に似てるという
お話のようです。


娘島田というのは、「乙女島田」に似てるの
でしょうか、良家のお嬢様が結うのようで、
京都の祇園では、「襟かえ」のあと、島田の鬘
つけるのですが、昔は地毛で結ったので、
髪の長さが胸のあたりにならないと、
結えないという、大人のファッション
思われます。



本来、娘島田は、枕が邪魔になって、
寝ると崩れて解けるのでしょうが、
それでは色気がないので、「ナサケにとける」
ことにして、7777と歌詞の 字脚を揃え、
とけて流れてノーエに戻り、
エンドレスになるのが、この唄の
カスケードスタイルという、解説のようです。



ところで、1853年、ペルリの黒船来日
の交渉に、代官江川英龍は、伊豆金谷村の
農民による鉄砲隊500名を引き連れています。

農兵隊による 日本の防衛は、 海防と合わせて
韮山代官36代当主、江川太郎左衛門英龍が
力説したことでした。


公儀のお代官さまで、武蔵、甲斐、相模、
伊豆、遠江、合わせて26万石とも言われる
知行ですから、5万石以上が大名なら、
並みの大名では及ばない大実力者でした。


1840年のアヘン戦争で、圧倒的な列強の
大砲に中国が負けたことが、幕府に伝わり、
長崎では佐賀藩が、焦眉の急として、西洋砲術
強化に走ります。



黒船が来たとき、佐賀では既に4基の
反射炉が建設され、大砲が製造され、
韮山は5年の周回遅れでした。



鎖国の、平和ボケではありませんが、
剣でも、弓でも、礼儀を整えて、 「道」とする
日本文化ですから、幕末までの鉄砲術は、個人が

的を撃つ100発100中が尊ばれ、
数打ちゃ当たるの
ナポレオン流「弾幕」戦法は、無視されました。

長崎の高島秋帆が西洋砲術を習得し、現在の
東京都・高島平で、砲術演習を行った1841年
以後も、「100発100中の砲1門は、
100発1中の砲100門に
勝る」という精神が、日本文化であったと
思われます。

この言葉は、偉大な海将である 東郷元帥が、
敵の軍艦は1発の命中弾でも沈没するから、
100発100中が、絶対に必要と説いているので、
この話を野戦砲まで拡大する精神論は、国を危うくします。




江川英龍が代官になって2年目、所掌地の伊豆浦賀で
モリソン号事件が起きます。渡邊崋山らと交際のあった
英龍は、日本と列強の軍事技術の差を知り、非戦論
海防の重要性を説きます。

太平洋戦争前も、日米の軍事技術の差を知り、
非戦論を述べた


先覚者(水野廣徳)がいました。
廣徳の予言通り、戦争で東京は火の海になりました。
アンシャン・レジームの信奉者が、精神論で
国を危うくするのは、幕末だけではありません。

「緊張感が足りないから、事故が起こる」
という上司の掛け声を聞いた時には、
そろそろ転職の道を考えて下さい・・(閑話休題)


この時期、大砲は、作りやすい銅と錫の合金、
青銅で造りました。 砲金とも言います。
これでは、数量が揃わないので
安価な鉄鋼で大量の大砲を作るため、
反射炉建設を考えた
江川英龍は先覚者でした。


しかし、旧体制は、江川英龍と交際のあった、渡邊崋山、
高野長英などの先覚者を、1839年、蛮社の獄で追放します。
英龍は、老中の信用が厚かったため、
難を逃れますが、その後、ペルリ来日まで15年、
表に出て実力を振るう機会は、余りありませんでした。

その後、韮山では、鉄砲が製造され、
高島秋帆砲術の免許皆伝後、 1842年
韮山に江川塾が開校され、西洋砲術の
中心となり、 伊豆梨本では、耐火煉瓦が製造され、
反射炉建設の準備は
だんだんと整って行きます。



当時、江川英龍の農兵構想は、刀狩から始まる
農兵分離という、アンシャン・レジームの
根幹政策に睨まれ、農兵訓練が韮山代官所に
許されるのは、英龍がこの世を去って8年後の
1863年でした。



英龍が進めた韮山の反射炉の完成も、
英龍が亡くなってから、2年後の
1857年でした。

その失われた15年、世界の製鉄、製鋼技術は
大きく進歩し、反射炉の技術環境は陳腐化し、
日本は、技術的に乗り遅れて行きました。




第2部.新撰組と韮山反射炉





  東京から西に30km、多摩川の河原に、
「クジラ公園」があります。
この辺りで出た、古代鯨の化石の近くに、
「築地の渡し」がありました。



この築地の渡しで、慶応2年(1866年)6月に
韮山代官、江川英武の鎮圧命令で、日野の
名主彦五郎と、武州の農兵隊と、 八王子千人同心により
当時発生した、武州一揆を鎮圧した記録があります。



江川英龍が農兵隊設置を力説しつつ亡くなってから
8年後の1863年に、ようやく、韮山代官所に農兵隊設置の許可が
おり、韮山代官所管内の藤澤と武州八王子
訓練所ができました。



八王子には、徳川家康公が認めた、 甲州軍団の遺臣を祖とする
半農集団の八王子千人同心がおり、 日光の警備を命ぜられて
いましたが、それが農兵隊組織に、似ていました。



武州一揆鎮圧で、幕府から褒賞された名主彦五郎ですが、
その義理の弟は新撰組の 土方歳三で、彦五郎は新撰組の影の
応援団でもありました。維新後許されるまで、彦五郎は身を隠して
いたと言われています。



反射炉が計画される10年ほど前、1842年、韮山に、
高島秋帆の西洋砲術を教える 江川塾が開講され
日本中から、有能な学生が 参加しました。その中には、
日露戦争の英雄、薩摩の大山巌もいました。



江川塾は、日本の海防を高めるために、英龍が
開いた塾であって、その時期、幕府の
アンシャン・レジームの信奉者からは、
マークされていたと思われます。



佐久間象山も入塾していますが、江川塾の
校風には、嫌気がさしていたようです。
江川塾は、英龍周辺の先覚者が、蛮社の獄で 逮捕される中、
西洋砲術を残すため 擬態を取っていたものと思われます。



江川英敏が、1863年西洋の新しい兵制組織により、現在の
三島市役所付近で、農兵の訓練が開始された時には、
日本中から、参観者が集まっています。

1839年の蛮社の獄から、
1853年ペルリ来航までの15年は、
英龍にとっては、失われた15年だったと
思われます。


しかし、その間、江川塾が開校され、
283名の受講者がいました。

ペルリ来航後、お台場の建設が始まり、
ロシア船ヘダ号が戸田港で建造され、
下田開港の和親条約が
結ばれ、韮山に反射炉建設が始まる
など、英龍の周辺では、歴史が



回転していき、その激務の間の
1855年、英龍が亡くなって、
英敏が、代官職を継ぐことに
なります。

韮山の反射炉は、この激動の時代を
語るものとして、現在残っている
唯一の、貴重な文化遺産といえます。
この反射炉自体は、悪く言えば 出来そこないの炉であって、
良い製品は作れなかった みたいです。


しかし、それを時代の証人として
保存してきたことは、高く評価される
と考えられます。

江川代官が、武州の世直し一揆を
鎮圧する前から、八王子同心と武州
農兵隊の回りには、京都で新撰組
活躍する人がいました。


しかし、その活躍とは反対に。
幕府は追いつめれていきます。
農兵組織に近い、長州の奇兵隊
倒幕軍の先駆けとなり、薩長連合
中には、韮山塾で学んだ塾生も
いました。



歴史は、英龍の思わぬ方向
流れていきましたが、日本の
近代化の達成を夢見て、活躍した
英龍にとっては、結果オーライ
いうことだったと、思われます。




第3部.明治維新と韮山反射炉





現在、日本の製鉄、製鋼技術は、 世界最高
水準にあります。

現在の製鉄、製鋼技術では、
まず、鉄鉱石を高炉で高温のコークスで溶解し、
炭素を多量に含んだ、銑鉄を作ります。



この銑鉄を、製鋼炉に入れ、酸素を吹き込むと、
高温で炭素が減り、溶融した鋼鉄になります。

韮山の反射炉は、銑鉄を溶解して、大砲用の鋳鋼を
製造する製鋼炉として、建設されたものです。



製鋼炉で溶解した鋼鉄は、炭素の含有量で、鋳鋼、
高炭素鋼、低炭素鋼、錬鉄と、呼び名が変わり、
製品の、強度、靭性、脆性、硬さが変わります。
また、再加熱して、冷やすことにより、純鉄
(フェライト)と炭素を含んだ鉄(セメンタイト)
の混じり方が変わり、性質が変わります。



鉄鋼の中に、硫黄や燐のような有害な成分
残って偏ると強度が下がり、大砲
壊れてしまいます。
また、鋳造の方法が悪いと、鋳物の中に
鋳巣(ヒケス)といった空洞ができて、
大砲は割れてしまいます。



韮山反射炉で作られた大砲は、50門製造され、
14門しか成功しなかったほど成績が
悪く、明治になって、廃炉となって
しまいますが、その設備の一部は、東京の
後楽園ドームの西に
作られた、関口製作所に移されて使われました。



韮山反射炉の耐火煉瓦は、 今の河津七滝あたりの
賀茂郡梨本村で、天城山の粘土を用いて焼いた
ものですが、品質は思わしくなく、明治に入って
すぐ、東京深川の工場に移され、梨本の工場は
閉鎖されています。



当時、日本では、釜石と鹿児島
高炉の製造に成功し、銑鉄の供給体制が
整いつつありました。

また、鹿児島、佐賀、釜石など、多くの
反射炉が建設され、鉄鋼の製造体制が
整ってきました。



しかし、この時期の世界の鉄鋼業界の
技術進歩は著しく、ドイツのクルップ、
英国のベッセマー転炉など最先端の
技術に対して、日本は遥かに遅れた
状態でした。



伊豆韮山の反射炉は、江川英龍の
思いとは反対に、明治の鉄鋼技術
役にたったとは考えにくい側面が
あります。

しかし、明治時代は、技術革新の時代でした。
技術には、ハードの技術
ソフトの技術があります。


反射炉を作って、鋼鉄の大砲を作るのは
ハードの技術革新です。
農兵隊を組織し、西洋の歩兵操典を
日本に適用するのは、ソフトの技術革新
です。


江川英龍が農兵隊の訓練で始めた、
「気をつけ」
「右向け、右」
「右へ、ならえ」
「まえへ、ならえ」
などの掛け声は、江川塾から 発生して、全国にひろまり、 現在も、使われています。 これは、ソフトの技術革新です。


韮山反射炉は、ハードの遺産としては
その評価は、余り評価できません。

しかし、韮山の反射炉を象徴として、
鉄砲の製造から、
大砲の製造、耐火煉瓦、鋳造された砲身の穿孔、
合理性を持つ軍事力のための 農兵組織など、江川英龍による
技術革新は、旧体制を打破し 新体制に移るための通過儀礼の
文化的価値として、 非常に高いものがあります。


世界遺産は、その国独自の文化的価値ではなく
国際的な影響の大きさの価値が、評価されます。

アヘン戦争から始まった列強のインド、中国への
進展に対抗する日本が、列強に対抗して編み出した
軍事的技術革新は、米国、ロシアを巻き込み、
江川太郎左衛門の本拠地である、伊豆の地で、
ハード、ソフトの花が開いています。



この列強の植民地化を食い止めた、 日本の歴史の証人である、
韮山反射炉を、世界の文化的遺産として残すことは、
大切なことです。

最後に、江川英龍が取った、さらなるソフトの技術革新を
ご紹介します。



伊豆箱根鉄道駿豆線の大場駅から、西のT字路を、
スーパーアオキ方面に左折して直ぐ右に、広渡寺が
あり、そこに、大場の久八の墓があります。

1835年に35歳で代官となった英龍は、剣客の
斎藤弥四郎と二人で、刀売りを装い、甲州騒動
地を巡視したと伝えられています。



巡視以後、甲州郡内地方(都留市周辺)の民心
安定のため、民生に努力した江川英龍に
対し、住民は「世直し江川大明神」と呼び
尊敬の念を払っています。



1853年、ペルリ来航後、 江戸城防護のために
英龍は、オランダ築城術による、お台場砲台建設の
命を受けます。
工事は、ペルリ再来までの短期間で完成させる
必要があり、英龍は、郡内の天野海蔵
協力を求めます。



天野海蔵は、現在の都留市境で、小作米が
2000俵という豪農であり、御殿場から伊豆に
勢力をもっていました。
天野海蔵は、伊豆の知己である、 大場の久八
協力を要請します。当時、大場の久八は
清水の次郎長と並び、
次郎長も一目おいたと言われた、
街道一の大親分でした。



天野の頼みに乗った久八は、農家の二男、三男を
白米と酒、温泉で誘い出し、畑温泉に集め、
江戸に工事人夫として、数千人を送り、ペルリ再来
までに、工事を間に合わせたと言われています。
短期間に、砲台を建設する技術力は、 アヘン戦争で
中国に勝った英米に足元を見られない、重要な
施策でありました。



お台場の基礎は、木杭を並べ、中に石を積んだもの
でしたが、明治以来200年びくともしていません。

工事の出来栄えは、職人の「やる気」によります。
久八は、大きな樽に孔をあけて小銭をつめ、
毎夕、帰り際の駄賃に、人夫に手を入れさせて
小銭の掴み取りをさせたと言われています。



従業員のやる気による、製品の品質向上
現代のQC、TQCの根幹をなすものです。
少々手荒ですが、久八の管理法は、この
原理を実践したもので、評価に値します。

お台場に連ねられた大砲を知ったペルリは、
開港地に希望した浦賀から、下田に後退しても
仕方なかったと思われます。



その後、明治政府の三大事業である 鉄道、灯台、電信などの
建設で、久八の集めたような人夫は、力を発揮していきます。
しかし、英国人ネルソン・レイに、
国債発行のピンはねで、騙される事件が起きたり、
狭軌鉄道を、大隈重信が決めるなど、
明治政府の外交は、今の目で見ると、失態
目に付きます。



江川英龍のような英邁な実務者を欠いた
公家と薩長連合による新政府では、止むを
得なかったものと思います。

大隈重信は、その後、早稲田大学を興します。
江戸の江川邸と、芝新銭座の大小砲演習所は
江川家の手代のあっせんで、江川家と旧知の
福沢諭吉に譲渡され、慶応大学の基盤と
なります。


江戸のお台場に連ねられた大砲は一度も
火を噴いたことはありません。
戦わないために、 軍備を強化する策は、
六韜三略・孫子といった、古代兵家の
智恵であります。

江川英龍の海防の智恵が、再び役にたつ
時代が来るかもしれません。

(2013年5月24日)
    
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