小松ヶ原 文学 伊豆 

伊豆の文学

文学の伊豆

   

 文学の伊豆を訪ねて

   プロローグ
    第1部 島崎藤村 川端康成
    第2部 岡本綺堂 泉鏡花
    第3部 井上靖 吉田絃二郎
    第4部 梶井基次郎 よしもとばなな





プロローグ





文学の伊豆ですが、
既に、伊豆の文学は、
殆ど開拓されていて、
何か新しい視点が、
必要と思い、
書き直し、書き直し、書き直して、
半年経ちました。

「文学の伊豆」ですが、
「物語」の「伊豆」でなく、
意外な、新しい視点の
文学の接点という
「伊豆の観光」気づき、
いろいろと工夫して、
書いてみました。



    第1部. 島崎藤村、 川端康成 の伊豆 




♪名も知らぬ 遠き島より
 流れ寄る  椰子の実ひとつ

 故郷の   岸を離れて
 汝はそも  波に幾月

この国民歌謡は、
1936年、島崎藤村の詩
大中寅二の作曲によるもので、
作曲者の大中寅二は、
東京赤坂の霊南坂教会
オルガン奏者を務めていました。

霊南坂教会は、
東京の六本木から
溜池に向かうの右手、
その昔、都電通りにあった
福吉町箪笥町の 停留場から、
右手の丘の上で、
アークヒルズの裏手にあって、
有名なカップルの結婚式で
有名な教会です。

川端康成の小説
伊豆の踊子の映画
6本ありますが、
山口百恵が最後の踊子で、
山口百恵は、 大中寅二
オルガン奏者を務めた
霊南坂教会で三浦友和と
結婚式を挙げています。

さて、島崎藤村と、 川端康成は、
時代が離れていて、
表面の関係は文学誌の同人ですが、
裏面に大中寅二と百恵ちゃんという
両面テープによる、意外な接点がありました。

このような、意外な結びつきで、
伊豆の観光を書くのも 面白いと思い
文学と伊豆を 書いてみました。

ところで、明治42年(1909年)2月、
島崎藤村は、友人の田山花袋、
蒲原有明、武林夢想庵と4人
伊豆を旅行し、
小説「伊豆の旅」を書きました。
その文学碑は、
踊子歩道沿いにあります。

同行した田山花袋も、 温泉巡りという本を
書いていますが、 その中に、島崎藤村と行った
旅が湯ヶ島の項に、書かれています。

島崎藤村の伊豆の旅は、
「汽車は大仁へ着いた」
から始まります。
現在、駿豆線は電車ですが、
明治31年三島と
長岡(当時の南条)間が
開業した時はSLで、
電化は大正8年ですから、
島崎藤村 を乗せた汽車は、
SL列車でした。

大仁についた
島崎藤村 御一行さまは、
寒さの中を修善寺まで歩き、
有名な独鈷の湯の前の
新井旅館に泊まり、
馬車で 天城トンネル
向かいます。

御一行様の馬車は、 湯ヶ島
つき落合楼に 1泊します。
落合楼は、 明治7年に開業し、
明治14年、山岡鉄舟が 名付けて
いますので、 島崎藤村御一行さまが
明治42年に逗留した時までに、
多くの有名人が 訪ねています。

島崎藤村「伊豆の旅」に、
有名人の名前はありませんが、
知っている画家の名があったと
記されていたり、宿の絵葉書
取り寄せたと書いてありますので、
当時は、超有名な旅館
あったことが窺えます。

翌日御一行さまは、
天城トンネルを通り、
湯が野で立ち寄り湯に入り、
下田で一泊して
石廊崎をみて、
汽船にのり伊東経由で
東京に帰っています。

島崎藤村は伊豆の旅で、
伊東温泉に泊り、

   ここの温泉で下田の宿と、
   湯ヶ島の渓流があったら、
   申し分なしだね

と書いていますから、
お気に召した 旅ではなかったようです。


ところで、 島崎藤村の旅に、
茅野という地名があります。
当時の国道414号線
旧道ですから
浄蓮の滝から、
現在の踊子歩道
を通ったと思われます。

島崎藤村の伊豆の旅は、
1909年(明治42年)で、
川端康成の旅は、
1918年ですから、
小説伊豆の踊子は、
島崎藤村の伊豆の旅から
9年後に伊豆に行った
川端康成の小説です。

しかし、島崎藤村の旅と
比較すると、川端康成
伊豆の踊子の方が、
読者の琴線にふれ、 印象が強く
愛されたことから、
島崎藤村が書いた
伊豆の旅を、押しのけて
有名になってしまいました。

さて、中伊豆から、西伊豆に行く
天城と松崎の間の 婆娑羅峠に、
野口雨情の童謡碑があります。
野口雨情
中山晋平は、
波浮の港の歌を作り
島崎藤村、川端康成が書いた、
伊東と下田の港を
歌にしました。

♪磯の鵜の鳥や、日暮れに帰る
 波浮の港は、夕焼け小焼け
 明日の日和は、
   ヤレホンニサ
 なぎるやら
  ・・・・・・・
 島で暮らせば 乏しゅうてならぬ
 伊豆の伊東とは、郵便たより
 下田港とは、
   ヤレホンニサ
 風たより

川端康成 の旅は、
島崎藤村と同様、
下田に宿泊し、
汽船にのり、海路
東京に帰るのですが、
川端康成と旅した 伊豆の踊子は、
汽船に乗って、
伊豆大島の波浮の港
に帰ります。

ですから、伊豆大島
波浮の港には、
踊子の里があって、
踊子の様子が
人形で飾られています。
川端康成「伊豆の旅」
いう本は、伊豆の踊子の他、
川端康成の短編を 集めた本ですが、

その中の 、湯ヶ島温泉という短編に、

  7年前、一高生の私が
  初めてこの地に来た夜、
  美しい旅の踊子がこの宿に踊りに来た。
  翌る日、天城峠の茶屋で
  その踊子に会った。
  そして、南伊豆を下田まで一週間ほど
  旅芸人の道連れにしてもらって旅をした。

  その年、踊子は14だった。
  小説にもならない程
  幼ない話である。
  踊子は伊豆大島の
  波浮の港の
  者である。

という、大正14年の記述があります。

それから1年後、大正15年
湯ヶ島の思い出が小説になり、
伊豆の踊子が発表されました。

川端康成踊子の兄とは、
葉書のやりとりがあって、
その後、踊子は東京に来る
機会があったようですが、
会ったという記述はありません。

小説では、踊子の名はですが、
本名・加藤民というお嬢さんで、
一家は波浮の港で
小料理屋を開き、
落ち着いたと書いてあります。
川端康成は、
伊豆の思い出の中で、

  24歳の夏に湯ヶ島で、
  公表するつもりもなく
  書いたものを、28歳の時に
  ところどころ少し直しながら
  写したのである。
  後に風景を書き入れて
  改作しようと考えてみたことも
  あったができなかった。
  しかし人物は勿論美化してある。

と書いています。

伊豆の踊子
学校の教科書
取り入れられたようです。
高校の教科書となると、
当然、時代の異なる部分を
そぎ落として、
教科書風に直してから
印刷することとなります。

現代風の伊豆の踊子は、
ナウい表現で 萌えの世界を、
印象付けることになります。
そして、大人になった生徒が、
原文に触れ
そぎ落とされた大人の闇を発見して、
慄然とすることもあるわけで、
それが、教科書でそぎ落とす
効果でもあると、思っています。

このそぎ落とした部分を、
直角に線引きしたのが
松本清張の天城越えで、
石川さゆりが歌った
天城越えも、
吉岡治の作詞、
弦哲也の作曲により、
大人の世界を描いています。

大人になってから、
教科書の、
伊豆の踊子の底流に、
松本清張の底流と
同じ闇を感じた時は、
下田から浄蓮の滝に向かい、
踊子歩道を反対にたどる
松本清張コースにいらして下さい。

高校生の教科書
萌えの世界の踊子を、
振り返りたい時は、
浄蓮の滝から、
天城トンネルを通って
湯ヶ野に行く、
踊子コースが、
お勧めと思います。

さて、香田晋の演歌、 伊豆の宿では

♪ふたつの川が、ひとつになって
 清き流れの狩野川に
 伊豆の湯ヶ島 出会い橋
 男と女のこの橋を
 渡れば幸せ見えるでしょうか

と、湯ヶ島の落合楼の上流で、
狩野川が猫越川と
本谷川に分かれたところの
出合橋が 歌われています。

当然、伊豆の踊子
川端康成
この橋を渡っていないので、
下田港の別れが最後としても、
不思議でないと思われます。

伊豆を訪れた際には、
踊子の観光場所のひとつとして、
出合橋を是非渡ってみて
下さい。

最後に、
実に気に入らない
川端康成の伊豆の記述をひとつ、

   伊豆は、山の多い半島です、
   山と海とが人々に生活の糧を
   半ば以上与えていて
   農業地ではありません。ですから、
   娘たちも山と海と野の間の子ですか。
   しかし、
   伊豆には美人が絶対に
   いませんね

    (大正14年8月、「婦人公論」)

  ゴッルアーーーーーーー(▼▼)_!!



    第2部. 岡本綺堂、 泉鏡花 の伊豆 





岡本綺堂、「秋の修善寺」 の一節

   とかくするあいだに空は再び晴れた。
   きのうまではフランネルに
   袷羽織(あわせばおり)を
   着るほどであったが、晴れると
   俄(にわか)にまた暑くなる。
   芭蕉翁は

     「木曾殿と背中あはせの寒さ哉」

   といったそうだが、
   わたしは蒲殿(かばどの)と
   背中あわせの暑さにおどろいて、
   羽織をぬぎに宿に帰ると、
   あたかも午前十時。


岡本綺堂が、
秋の修善寺の中で、
範頼の墓に詣でた時に、
芭蕉が言ったと書いた、

   木曾殿と背中あはせの寒さ哉

という句は、

芭蕉の門人 島崎又玄の句で、
滋賀県大津市の 義仲寺に、
句碑があります。
しかし、大学入試センター 定番の
評論家小林秀雄
義仲と芭蕉のことを
書いたころ、この句は 芭蕉
自ら詠んだ句
考えられていたようです。

さて、伊豆の芭蕉の句碑
探して見たのですが、
意外にありませんでした。

大仁富士屋旅館の隣、
菊池米屋さんの前に

   霧しぐれ 富士を見ぬ日ぞ 面白き (芭蕉)

という句碑があるようですが、
同じ俳句の句碑は、
箱根にも三島 にもあるとのことです。

木曽の義仲は、
源氏の一党で、
巴御前と共に京都に
進軍するのですが、
京都の政治・文化になじめず、
同じ源氏の一党である
義経の軍勢に攻められ、
京都から追い払われてしまいます。


源氏の棟梁として、
幕府を開くのは頼朝ですが、
頼家、一暁と、順調に
家督は継がれず、
源氏は滅び
北条氏が執権となって
実権を握ることになります。

岡本綺堂は、半七捕り物帖や、
歌舞伎の台本で、
妖気のある、異次元
文学を広めた、
偉大な作家で、
修善寺を旅して、
春の修善寺、秋の修善寺という
短編を書いています。

源頼家は、頼朝を 継ぎますが、
幕府内の統制が十分でなく、
北条を始めとする幕府内の
実力者から権力を奪われ
殺されてしまいます。
岡本綺堂の修善寺物語は、
歌舞伎の台本で、
そのまえがき

   (伊豆の修善寺に
   頼家の面というものあり。
   作人も知れず。由来も知れず。
   木彫の仮面にて、
   年を経たるまま面目分明ならねど、
   いわゆる古色蒼然たるものにて、
   観来たって一種の詩趣をおぼゆ。
   当時を追懐してこの稿なる。)

と書いています。

伊豆の新井旅館ホームページを見ると、
岡本綺堂の記事があり、

   新井旅館滞在中に
   取材した「修善寺物語」を発表
   執筆の間も現存している。
   随筆「春の修善寺」
   「秋の修善寺」がある。

と書かれています。

岡本綺堂が書いた
修善寺物語は、
新井旅館を定宿とした、
有名な歌舞伎役者の
二代目市川左団次のために
書いた台本で、
岡本綺堂は、 他の役者
演じるのを許さなかった
ようです。

修善寺物語主役は、
面作者夜叉王、 娘のかつら、
頼家ですが、
かつらは、 頼家に召されて
若狭の局となり、
討ち入りの際、 頼家の面で敵を欺き、
頼家を助けよう としますが
努力空しく頼家は討たれ
かつらは、若狭の局として
仕えたことに満足して、
亡くなるという筋書きです。

ところで、実際には、
頼家には、
若狭の局という正妻が
あったのですが、
将軍頼朝の信任の厚かった
比企能員の娘であったために、
比企の乱に連座して、
北条時政に殺されています。


比企一族埼玉県比企郡が本拠の
源氏一党の豪族で、
義仲の領地であった北陸まで
領地とする大実力者であり、
頼家は比企能員の娘
妻としていました。
しかし、北条時政は、
頼家を良く思わない武士
まとめ、比企一族を倒し, 頼家の力を殺ぎ
権力を手中に収めます。

比企能員の本拠地は、
埼玉県の比企郡で、
今の川越カントリー倶楽部の南側、
扇谷山宗悟寺のあたりにあったと
言われています。

そして、そこから、
西南に二里ほど行った、
嵐山カントリークラブの北西側に、
奇しくも、木曽義仲が生まれた
班渓寺があります。

頼家の若狭の局比企能員の娘で、
能員の本拠地で生まれたとすると、
義仲と、実在の若狭の局は、
背中合わせの地
生まれたこととなり、
まさに、

   木曾殿と、背中合わせの 寒さかな

という、巡り合わせ
岡本綺堂気付いていた
と思ったりしています。

岡本綺堂は、
妖気のある作品が多く、
妖艶な文章で、読者を魅了しますが、
泉鏡花もまた、
高野聖をはじめとする
妖女が主人公の物語を
多く書いています。

高野聖の舞台は、
信州の山奥の設定ですが、
伊豆の山奥にも、
妖怪の住む、心霊スポット
あるのではないかと、
伊豆の心霊スポット
インターネットで調べてみました。

伊豆の山奥心霊スポットは、
インターネット上にあるのですが、
山奥でも、トンネルとか、 道路とかで、
泉鏡花の好む、
深山幽谷では
ないようです。
なお、旧天城トンネルは、
心霊スポットとのこと、
ぜひ丑三つ時に、ご訪問いただき、
心霊さまにお会いして
特別の観光スポットとして、
格別のご協力を賜りますよう、
丁重にお願いして下さい。

さて、泉鏡花
「斧琴菊」は、
修善寺の新井旅館
舞台の小説で、
小説の中に出てきます。

新井旅館のブログを見ますと、

   昭和9年、「高野聖」で
   有名な小説家泉鏡花は
   桐の三番に宿泊し、
   「斧琴菊」を
   中央公論に発表しました。
   この中で、
   「修善寺温泉の大旅館 菖薫楼
   霧の三番」として登場します。

と書かれています。

斧琴菊は、
「よきこときく」と読み、
尾上菊五郎
役者文様で、
本来、妖怪と 関係はありません

また、斧琴菊は、
横溝正史
ホラー推理・犬神家の一族
有名ですが、
尾上菊五郎、泉鏡花と横溝正史
接点は、探索してません。

泉鏡花には、
半島一奇抄という
伊豆の短編があります。
この小説は、修善寺から、
自動車
沼津に向かう旅で、
中に、現在の地名
沢山あり、当時の風景と
現在の風景を
比べる楽しさがあります。

この小説は、
大仁から長岡に出て、
江間から狩野川放水路
辺りの山道が通行止めで、
長岡に戻り、三津浜にでて、
口の浜に行く途中の
化け物の話です。

主役の化け物は、 大鼠ですが、
泉鏡花怪しい調子で
書かれています

さて斧琴菊の、 化け物は、
湯ヶ島で生まれた、
お雪さんという
料亭の養女の美しい娘と、
天城の途中にある 明琳の滝
女神さまのお話で、
お雪さんは、雪虫
化け物のようです。

泉鏡花化け物の話は、
高野聖のお化けと、
夜叉が池のお化けと
龍潭譚のお化けと、
薬草取りのお化けと、
海神別荘の蛇のお化けも、
皆、同じイメージの
美しい妖女で、
親切なお化けもいて、
それほど、怖くは
ありません

それが、泉鏡花が有名に
なった秘訣と思われます。




    第3部. 井上靖、 吉田絃二郎 の伊豆 





さて、泉鏡花お雪さんは、
雪虫の化け物でしたが、
化け物でない雪虫
井上靖は、次のように書いています。

   その頃、と言っても大正4,5年のことで、
   いまから40数年前のことだが、
   夕方になると決って村の子供たちは、
   口々に「しろばんば、しろばんば」と叫びながら、
   家の前の街道をあっちに走ったり、
   こっちに走ったりしながら、
   夕闇のたちこめ始めた空間を
   綿屑でも舞っているように
   浮遊している 白い小さい生きものを
   追いかけて遊んだ

これは、伊豆で 有名な井上靖
しろばんばの書き出しです。
しろばんばは、昭和35年
中央公論社から出版され、
新潮文庫で文庫本となり
今でも手に入ります。

さて、井上靖は、
幼き日のことという 短編
昭和37年に書いています。
これは、しろばんばの元となった、
湯ヶ島思い出の 短編ですが、
当然しろばんばと、 異なっています。
最も異なるのは、 登場人物の名前で、
物語の筋道大筋で同じですが、
異なる部分もあります。

しろばんばの舞台の土蔵は、
幼き日のことの中で、
取り壊されたとあります。
今、湯ヶ島に残っている旧家は、
しろばんばの土蔵ではないようです。

井上靖の墓は、
湯ヶ島にあります。
文学碑もあります。
しろばんばの主人公の
洪作とお縫婆さんの、
銅像もあります。

そのほか、井上靖の旧跡は
湯ヶ島を中心に、伊豆にたくさん
あります。それを辿って、
観光旅行をお楽しみ下さい。

さて、泉鏡花の小説、
斧琴菊
料亭の養女という、
美しいお雪さんは、
雪虫の化け物と書きましたが、
その中に、次の一節があります。

   冬日和のほんのりと、
   しかし寂しいときに、
   屋敷町の辻だの、宮、堂の表、
   裏道、小橋の袂などで、
   子供たちが 唄いました。

   (おほわた、来い、来い、ままくはしょ
   ままがいやなら、ととくーはしょ)

   あれなんです。
   天城山中にたった一つ。

天城山中は、伊豆です。
泉鏡花の 化け物が通う川の淵
修善寺から上流で、町の様子から、
湯ヶ島と思われます。

歳時記を見ますと、
「おほわた」
「雪虫」のことでした。

そして、雪虫を調べると、
東京では「オオワタ」
京都では「白小屋お駒はん」
大和その他で「シロコババ」
伊勢で「オナツコジョロ」
そして、伊豆では 「しろばんば」
書いてありました。

また、「しろこばば」
「ゆきばんば」
方言にありましたが、
「しろばんば」はありません、
と書いてありました。

井上靖しろばんば
書いた以前の、
雪虫の伊豆の呼び名は
泉鏡花おほわたの他に
見つかりませんでした。

泉鏡花が書いたのは
昭和14年で、
井上靖「しろばんば」は、
昭和35年で、 21年
隔たりがあります。

小説に、科学的真実性
必要ありませんから、
これは、両方とも、
「小説」の中の
真実と思います。

井上靖幼き日のことには、
雪虫は、あまりいません。
しろばんばでも
始めに盛大に飛びますが、
後は飛んでいません

しろばんば
方言の雪虫と いうのは、
ことによると 世間の誤解で、
井上靖が発見した
伊豆の物語の世界の
雪虫かもしれません。

泉鏡花のころは、東京と同じ
おおわただったかも
知れませんし、
湯ヶ島には、 湯治客
沢山来ましたので、
シロコババが伝えられ、
井上靖のころ しろばんば
なったのかも知れません。

小説を読んで、 思いました。

ほかに文献があれば、別ですが・・
もしも、小説が元で、世間
雪虫の方言と 誤解して、
後に人口に膾炙されたと したなら、
素晴らしいことだと 思いました。

それは、井上靖しろばんばは、
方言を書き変えるほど 影響が大きく
読者に好かれた ことに他ならず、
これこそ、日本人総てから贈られた
最大の勲章だと 思いました。

さて、他に、幼年時代、少年時代
のことを小説に書いた
作家はたくさんいます。

中勘助は銀の匙
山本有三は路傍の石
下村湖人次郎物語
を書いてます

下村湖人次郎物語
次郎の成長とともに
第5部まで続く 大作ですが、
次郎が、里子に出され、
いやいやながら実家
戻るという設定は、
しろばんば洪作
似た所があります。

下村湖人は、 始め下村虎人
筆名で書いていました。
この筆名は硬いので、
もっと柔らかい筆名が
良いと言われて
スコットの湖上の美人から
湖人という名前に直したと
言われています。

さて、修善寺小学校に、
吉田文庫があります。

下村湖人に、
虎人の名前を変えたら
良いと言ったのは、
吉田文庫
修善寺小学校に寄贈した、
吉田絃二郎でした。

吉田絃二郎という作家は、
あまり知らない作家でしたが、
調べてみると、昭和の初めには
大変人気のある作家であったという
記述がありました。
また、少年少女小説や、ヨハンナ・スピリの
アルプスの少女の翻訳をしています。

吉田絃二郎の小説本を探して
みたのですが、
殆ど手に入らない
ようでした。
一冊手に入れたのは、
我が旅の記という本で、
伊豆修善寺にある、吉田絃二郎と
奥様の墓の記述がありました。

   わたくしは修善寺の宿の若い主人に
   案内されて山に登って行った。
   そこからは冬枯れの十国峠も
   箱根も見られた。

   一抱えもありそうな四五本の赤松に
   取りかこまれた地域を選んで、
   わたくしたちのために、若者たちは
   墓を築いているのであった。

   若者たちが掘りかえしている山上は
   ずっと昔、塞というか、城というか、
   そういった種類のものが構えられて
   いた地点だということであった。

吉田絃二郎夫妻の墓は、 東京多磨墓地
あります。伊豆鹿山の墓地は、 分骨によって
葬られたものです。
修繕寺には、神経痛の養生に訪れて、
菊屋旅館に逗留しています。

菊屋旅館のページには、 文豪夏目漱石
吉田絃二郎縁の宿と記してあります。
菊屋旅館の主人は、 吉田絃二郎が早稲田大学の
講師時代の教え子だったことで、 深い縁
あったものと思われます。

吉田絃二郎のことを 書いた佐賀工業高校
ホームページを見ますと、幼い時期に
家が破産したりして、 恵まれなかったことが
書かれています。

しかし、友人の加納作次郎は、

   吉田君は実に真面目で
   熱心な勉強家だった。
   学校では何時も首席で通し、
   特に語学が群を抜いて
   優れていた。地味で謙遜で
   衒学的なところや
   軽薄なところの微塵もない
   懐かしみ深い
   善い人だった。

と書いているそうです。

  

    第4部. 梶井基次郎、よしもとばなな の伊豆 





梶井基次郎は、大阪市で生まれていますが、
多くの文士と同様に、病気養生のために
伊豆を訪れて、伊豆で有名になった
作家です。

前の章で、吉田絃二郎のことを、幼い時代に
家が破産するなど、恵まれなかったという
ことを書きましたが、梶井基次郎
父の放蕩生活で、幼い時代、恵まれない
生活を送っています。

しかし、吉田絃二郎と、 梶井基次郎
決定的な違いは、梶井基次郎
荒んだ生活を送り、 31歳の若さ
結核で、亡くなっていることです。

吉田絃二郎が、早稲田大学教授を辞して
文筆活動に入るのは、 昭和9年です。

梶井基次郎は、 昭和7年に亡くなって
いますので、吉田絃二郎梶井基次郎
作家活動の時期が重なっています。

しかし、真面目で善人であった、吉田絃二郎の
小説などは、昭和初めに有名になりました が、
現在殆ど読まれていないようです。

一方で、荒んだ生活を送って、病と放蕩で
若くして亡くなった梶井基次郎の小説は
大学入試センター定番の
評論家小林秀雄から
高く評価され、代表作の
檸檬は、 高校の国語の教科書
載っています。

梶井基次郎檸檬は、
次郎物語のような、少年向け
教養小説とは言えません。

現代の高校が、次郎物語や路傍の石の
主人公 のような社会人を育てる環境では
なくなっているとは、思いませんが、
いじめや暴走族の高校生をなくそうと
いうための教科書が、 梶井基次郎
小説であるとも思えません。

梶井基次郎は、 湯ヶ島の落合楼にいた
川端康成を訪れ、川端康成の勧めで、
今は廃業している湯ヶ島の湯川館
逗留します。

湯川館から、 川端康成を訪ね、
、落合楼の裏口をでて、湯川館に
帰る間の情景を書いているのが、
闇の絵巻で、 梶井基次郎
次のように綴っています。

   私はその療養地の一本の闇の
   街道を今も新しい印象で思いだす。
   それは渓の下流にあった一軒の
   旅館から上流の私の旅館まで
   帰ってくる道であった。
   渓に沿って道は少し上りになっている。
   三四町もあったであろうか。
   その間にはごく稀にしか電燈が
   ついていなかった。今でもその数が
   数えられるように思うくらいだ。

この短編の最後は、次のように
終わっています。

   闇の風景はいつ見ても変わらない。
   私はこの道を何度ということなく歩いた。
   いつも同じ空想を繰り返した。
   印象が心に刻みつけられてしまった。
   街道の闇、闇よりも濃い樹木の闇の姿は
   私の眼に残っている。
   それを思い浮かべるたびに、
   私は今いる都会のどこへいっても電燈の
   光の流れている夜を薄っ汚く思わないでは
   いられないのである。

梶井基次郎が 書きたかった人間の心は、
井上靖、吉田絃二郎、岡本綺堂、
泉鏡花など有名な作家
書こうとしたものと、 変わらない
思っています。

岡本綺堂や、泉鏡花は、異次元の世界を
構築し、その世界で繰り広げられる
物語を通して、 人間の心を描いていると
思いますが、梶井基次郎や吉田絃二郎は、
普通の生活の目を通して、 人間の心
描いていると思っています。

さて、天城から
西伊豆 へ行く婆娑羅峠に、
野口雨情の童謡碑があると
書きましたが、
婆娑羅峠を
県道15号線で、西に下ると
松崎町に入ります。

1996年
大学入試センターの問題に
唐突にTUGUMIが出て、
話題になったそうですが、
TUGUMIの映画ロケが
行われたのは、
松崎町にある 旅館の梶寅で、
現在でもつぐみの宿という
看板が出ているそうです。

よしもとばななの書いた
TUGUMIの舞台は
本当は西伊豆の、
土肥温泉だそうです。

TUGUMIには 舞台は山本旅館
書いてあるようですが、
土肥温泉で 山本旅館は
見つかりませんでした。

他に、よしもとばななの小説で、
海のふたというのが
ありますが、この小説でも、
伊豆の土肥温泉が小説の
舞台になっています。

小説TUGUMIに出てくる
つぐみは、病弱で美人の
お嬢さんで、ひねくれていて
主人公のまりあ
平気で悪口をいうのですが、
まりあの父が離婚して
母と再婚するという
複雑な事情が設定されていて、
小説で読む限り
ひねくれていても、
若者が共感する
純真な娘さんたちの
小説のようです。

生活に荒んだ
梶井基次郎檸檬
教科書に載っているのも、
大学入試の問題に
病弱でひねくれた娘の
TUGUMIの話が 出てくるのも、
教育者の学生に対する
精神的期待の表れと思いますが、
理解が難しい所でも あります。

恐らく現在の教育者は、
中学・高校の学生
全幅の信頼を 寄せていて、
社会に出た学生たちは
梶井基次郎のような
あるいは、よしもとばななの
つぐみのようには ならない
信じていると いうことで、
一見、無責任にも見えますが、それが
現代の教育というものなのかも
しれません。

そんなことを考えながら
東京から、高速道路を使い、
もうすぐ高速に直通する
伊豆縦貫道を通って、
中伊豆、、松崎、土肥温泉
観光旅行は如何ですか。

伊豆には、膨大な観光の
エレメントがあります。
グルメだけでなく
文化的に楽しい旅が
期待できると
確信してます。


 文学の伊豆を訪ねて

エピローグ



色々な文学の伊豆について、
新しい視点接点を探して書くという、
試みで、 書いてみました。

探してみると、 色々な接点の話題
あったようです。

また、有名な小説を書いた 作家の生活
調べていくと、色々な話題があって、
その発見も面白いものです。

さて、とりあえず、文学の伊豆
まとめてみた感想を考えると、 総て

善人なおもて往生をとぐ
いわんや悪人をや
           (歎異抄)

といったところかも、知れません。


(ページの大きさが、18Mbを超えて、大きくなりました。
 円周率を100万ケタ計算するのに、10秒くらいの
 PCでも、読み込みに10秒位、かかりそうです)



    
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