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文学の伊豆
文学の伊豆を訪ねて
プロローグ
第1部
島崎藤村 川端康成
第2部
岡本綺堂 泉鏡花
第3部
井上靖 吉田絃二郎
第4部
梶井基次郎 よしもとばなな
プロローグ
文学の伊豆
ですが、
既に、
伊豆の文学
は、
殆ど
開拓されて
いて、
何か
新しい視点
が、
必要
と思い、
書き直し、書き直し、
書き直して、
半年経ち
ました。
「文学の伊豆」
ですが、
「物語」の「伊豆」
でなく、
意外な
、新しい視点の
文学の接点
という
「伊豆の観光」
に
気づき、
いろいろと
工夫
して、
書いてみました。
第1部. 島崎藤村、 川端康成 の伊豆
♪名も知らぬ 遠き島より
流れ寄る 椰子の実ひとつ
故郷の 岸を離れて
汝はそも 波に幾月
この
国民歌謡
は、
1936年、
島崎藤村の詩
と
大中寅二の作曲
によるもので、
作曲者の
大中寅二
は、
東京赤坂の
霊南坂教会
で
オルガン奏者
を務めていました。
霊南坂教会
は、
東京の
六本木
から
溜池に向かう
坂
の右手、
その昔、
都電
通りにあった
福吉町箪笥町
の 停留場から、
右手の
丘の上
で、
アークヒルズ
の裏手にあって、
有名なカップル
の結婚式で
有名な
教会です。
川端康成
の小説
伊豆の踊子の映画
は
6本ありますが、
山口百恵
が最後の踊子で、
山口百恵
は、
大中寅二
が
オルガン奏者を務めた
霊南坂教会
で三浦友和と
結婚式
を挙げています。
さて、
島崎藤村
と、
川端康成
は、
時代が
離れて
いて、
表面の関係は
文学誌の同人
ですが、
裏面に
大中寅二と百恵ちゃん
という
両面テープによる、
意外な接点
がありました。
このような、
意外な結びつき
で、
伊豆の観光
を書くのも
面白い
と思い
文学と伊豆
を 書いてみました。
ところで、
明治42年
(1909年)2月、
島崎藤村
は、友人の田山花袋、
蒲原有明、武林夢想庵と
4人
で
伊豆を旅行し、
小説
「伊豆の旅」
を書きました。
その
文学碑
は、
踊子歩道沿い
にあります。
同行した
田山花袋
も、
温泉巡り
という本を
書いていますが、 その中に、
島崎藤村
と行った
旅が
湯ヶ島
の項に、書かれています。
島崎藤村
の伊豆の旅は、
「汽車は大仁へ着いた」
から始まります。
現在、駿豆線は
電車
ですが、
明治31年
三島と
長岡(当時の南条)間が
開業した時は
SL
で、
電化は
大正8年
ですから、
島崎藤村
を乗せた
汽車
は、
SL列車
でした。
大仁についた
島崎藤村
御一行さまは、
寒さの中を
修善寺
まで歩き、
有名な
独鈷の湯の前の
新井旅館
に泊まり、
馬車で
天城トンネル
へ
向かいます。
御一行様の
馬車
は、
湯ヶ島
に
つき
落合楼
に 1泊します。
落合楼
は、
明治7年
に開業し、
明治14年、
山岡鉄舟
が 名付けて
いますので、
島崎藤村
御一行さまが
明治42年に逗留した時までに、
多くの有名人
が 訪ねています。
島崎藤村
の
「伊豆の旅」
に、
有名人の名前はありませんが、
知っている
画家の名
があったと
記されていたり、
宿の絵葉書
を
取り寄せたと書いてありますので、
当時は、
超有名な旅館
で
あったことが窺えます。
翌日
御一行さま
は、
天城トンネル
を通り、
湯が野
で立ち寄り湯に入り、
下田で一泊
して
石廊崎
をみて、
汽船にのり伊東経由で
東京
に帰っています。
島崎藤村
は伊豆の旅で、
伊東温泉
に泊り、
ここの温泉で下田の宿と、
湯ヶ島の渓流があったら、
申し分なしだね
と書いていますから、
お気に召した
旅では
なかった
ようです。
ところで、
島崎藤村
の旅に、
茅野
という地名があります。
当時の
国道414号線
は
旧道ですから
浄蓮の滝
から、
現在の
踊子歩道
を通ったと思われます。
島崎藤村
の伊豆の旅は、
1909年
(明治42年)で、
川端康成
の旅は、
1918年
ですから、
小説
伊豆の踊子
は、
島崎藤村
の伊豆の旅から
9年後
に伊豆に行った
川端康成
の小説です。
しかし、
島崎藤村
の旅と
比較すると、
川端康成
の
伊豆の踊子
の方が、
読者の
琴線
にふれ、
印象が強く
、
愛された
ことから、
島崎藤村
が書いた
伊豆の旅を、
押しのけて
有名になってしまいました。
さて、中伊豆から、
西伊豆
に行く
天城と
松崎
の間の
婆娑羅峠
に、
野口雨情の
童謡碑
があります。
野口雨情
と
中山晋平
は、
波浮の港
の歌を作り
島崎藤村、川端康成